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ようこそ

 投稿者:窪田やよい  投稿日:2016年 4月21日(木)23時06分58秒
  かずやんさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
掲示板、放置ですみません。私自身久しぶりに覗きました。
長い間愛読していただけてうれしいです。
気長に、合間合間に読んでいただければうれしいです。
 
 

こんにちは

 投稿者:かずやん  投稿日:2016年 3月26日(土)10時58分51秒
  もう5年ぐらいになりますかね~このサイトを知ったのは。
久しぶりに見てます。投稿は初めてです。最新の書き込みが去年だったので 思いきって書きました。かといってすべてを読んだ訳ではありません。膨大なページを読むのは大変です。
日常生活もやりながら まして仕事をしている者にとっては その困難は大変なものだと思います。しかし やりながらだからこそ息抜きができると考えてみては…☆
SNSもやりました ゲームもやりました みーんな時間が掛かるんですよね~そんな中で一つの挨拶として 四国から
 

ありがとうございます

 投稿者:窪田やよい  投稿日:2015年 3月10日(火)22時54分8秒
  稲田彰三さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
このサイトを立ち上げて16年、父が83歳で亡くなって9年が経ちます。
いまだにこのように訪問してくださる方がいらっしゃることに驚きとうれしさでいっぱいです。
戦後70年が経ち、あの戦争はどう評価されるのでしょうか。日本は侵略したのでしょうか。今の豊かで自由で安全な日本があるのはあの戦争を体験した人々のお陰であることは間違いないと思います。
私は行ったことはありませんが、ミャンマーは穏やかなところと聞きます。皆さんが楽しくしあわせに暮らせますようお祈りいたします。
 

感激しました

 投稿者:稲田彰三  投稿日:2015年 3月 9日(月)00時25分19秒
  今ヤンゴンに住んでいます。去年の5月からです。会社を定年退職してから以前から世話をしているミャンマー留学生達のいるミャンマーで楽しく暮らしています。
インパール作戦に興味があったのでこのページにたどり着きました。
最後まで読んで実際の兵隊さんのつらさが良く分かりました。十年以上前からミャンマーに来ていますので、お父さんの行かれた場所の多くは旅行で行きました。
お父さんも亡くなられたそうですが、私の母もほぼ同年代で従軍看護婦として二年前に92歳で亡くなりました。いつも戦時中の事を話していました。(内地勤務でしたが)80歳まで現役の看護婦として働いていました。何とかインパール方面まで行けたらと思っています。まだお元気でしたらメールください。稲田彰三shozoinada@yahoo.co.jp
 

「狼演芸部」資料が続々

 投稿者:三重のドアホ  投稿日:2014年 3月 1日(土)10時09分29秒
  添付が無理のようですので記事一部を要約します。朝日新聞8/4夕刊で数年前の記事と思います。
    ビルマの収用所 日本兵捕虜の劇団
 資料は、元団員の遺品から、新国立劇場演劇部門監督で演出家の栗山民也さん(51)の父信也さん(89年死去)の遺品。故信也さんが書き、演出もした現代劇の台本「白薔薇は咲けど」「旅する人々(サーカス団)」「裸像」の3冊▽ポスター▽主題歌と劇中歌の楽譜3曲▽配役やスケジュール、舞台装置プランメモ。民也さんが演出する舞台「花よりタンゴ」主催こまつ座(03ー3851-6180)の機関紙に掲載。

    民也さんが発見し、 収用所の中に民主的、自由な環境があったことを知り、驚いたとのこと。(久保田様の記録と一致する。)
   演劇評論家 大笹吉雄さんの話 故加藤大輔さんが回顧録「南の島に雪が降る」で戦中戦後のニューギニアで芝居を上演した体験をつづっている他はまとまった資料がほとんど無い。演劇史研究のの貴重な資料になる。とあります。

 記事にはキーワード「ビルマ戦線」が下記のように付属。

  太平洋戦争中に、ビルマ方面に出兵した旧日本陸軍と海軍の部隊は、あわせて約24万人。このうち16万5千人ほどが戦死shた。終戦時には7万人余の日本兵が、現地に残っていたとみられている。
  小生の小学生時代からの友人でM商社を10年前に定年退職したS君が最近ミャンマーを観光旅行して、蓮の繊維と絹で布を作る現場や僧院での子供への僧侶教育、釈迦しかいないパゴダ、ビルマの竪琴の寝釈迦を見てきた
とメールを貰いました。 それで書棚整理していたら 上記新聞記事の切抜きがでてきました。草々
   
 

掲示板経由では無理でしょう

 投稿者:窪田幸唯  投稿日:2014年 3月 1日(土)08時12分10秒
  この掲示板には画像は貼り付けられません。どこかに画像をアップしてそのアドレスを書き込むのがいいのですが、そういうことができるでしょうか?
そういうことが可能でないとするなら、私にメールで送ってみてください。kubota@kcnet.ne.ジェーピー 
 

狼演劇団

 投稿者:三重のドアホ  投稿日:2014年 3月 1日(土)07時02分4秒
  戦後のビルマ現地収容所の演劇団の様子の窪田様の記述を補足するものとして、
 狼演劇団の色刷りポスター新聞記事をメールで送りたいのですが
 添付で送れません。どうすれば良いでしょうか。
 

お元気でご活躍を

 投稿者:窪田やよい  投稿日:2014年 2月 4日(火)15時42分8秒
  ガンキョウさん、ご訪問&書き込みありがとうございます。
お元気そうでなによりです。
久しぶりに過去のページを辿り、ついつい読み込んでしまいました。
すごい掲示板ですね。
訪問してくださり熱きご意見を書き込んでくださる皆様のお陰です。
またのご訪問をお待ちしております。
 

ガンキョウさんありがとうございます

 投稿者:窪田幸唯  投稿日:2014年 2月 3日(月)22時56分1秒
  ガンキョウさん 掲示板への書き込みありがとうございます。
実際戦争を体験された世代が少なくなってきていますが、私の父(孝之助は義父です)は今日元気に94歳をむかえました。
戦争後半に召集され、満州からシベリア経由で帰国しましたような経歴を持っています。私が子供のころ父は軍隊の初年兵のころの話、満州にロシア軍が入ってきたころの話、その後の捕虜生活の話を沢山話してくれました。
父は最初満州の戦車部隊に配属されましたが、候補生の教育を受けている間に部隊がフィリピンに移動。もともと電気系の学校教育を受けていたことなのでしょうか、別な部隊へ転属。訓練ののち関東軍の通信憲兵少尉となりました。ロシアのスパイを探知する部隊の地区リーダーでした。通称86部隊と呼ばれていたそうです。スパイの発信する電波を探知し、スパイの潜入先を探知する部隊だったとのことです。当時のあっちの持っている通信機がアメリカ製で性能が格段に良かったようです。真空管の性能が全然違ったという話を覚えています。
戦後、ロシア側から部隊が機密部隊ではないかということで遅くまで(25年?最終便の一つ前)抑留されていました。
父は私たち子供に「お前たちには実際戦争に行ってないから、戦争でいつ死ぬかわからない心情は理解できないだろう。死ぬのは家族のため」と語っていました。大人になってみてその心情は理解できるようになっています。
マスコミ報道とか映画で見る話と父から実際聞いている話の印象は違います。
子供のころ、シベリアから持ち帰った毛布とスプーンに接した覚えがあります。毛布はゴアゴアし、スプーンはアルミの変な感じ。そんな「物」からは現地の匂いは分かりませんでした。
実際話を聞いたことが私の印象に残っています。
酔っぱらうとシベリアの話をするのが癖のような時期があった父ですが、最近は当時のアツイ語り口はないです。覚えている私のようなものがその思いを間接的に伝えていくべきかと思います。

 

ボケ老人の独り言

 投稿者:ガンキョウ  投稿日:2014年 1月30日(木)10時47分2秒
  窪田様
いつもウェブ欄、ご意見やお問い合わせ、楽しく拝読させて頂いて居りました。
私も95歳に一歩踏み込みました。皆さん勇ましく、関心致しました。
さて、ななしさん、敵を殺さず、味方ばかり殺していたので、戦犯にも値しなかった司令官。
身は鴻毛の軽きに比し、捕虜になったら死ねよと諭しながら、己は五体の急所も弁えず、
拳銃で死んだ真似を図ろうとは情けない。腰の軍刀で割腹していたならば、総ての罪は消え、
私達も亡き戦友を尋ねて靖国神社に詣でるものを、彼が居るばっかりで行かずに居る。
初年兵の教育係りとして、幾多の青年を貢港に送りこんでいた私は、それがインバールで
教えられなかった苦闘をあじわい、怨みなから死床に着いたことを偲び、インパール作戦には
大変興味をもちました。
防衛庁防衛研修所戦史室著戦史叢書を始め、文芸春秋の高木俊朗著インパール四連作はもとより、
原書房発行の関東軍参謀今井武夫氏著、昭和の謀略、何と卑怯な、と思いながら、
中でも日立家電販売社長荒木進氏の書かれたビルマ敗戦行記は、私の戦争観とあまりにも一致しているので
大いに意を強くしました。
そして氏の出征して行く時期、昭和19年、輸送船[帝王丸]、博多湾より出港、魚雷攻撃を受け高尾港に逃げ込む状況等、余りにも窪田孝之助氏と行動が似ているので殊更に興味を持ちました。
パソコンに打ち込んである往事の日記を読み返し、亡き戦友を偲び、往時、一歩一歩75㌢で歩いた足どりを
地図に入れ、今は数少ない戦友に送り、孤独を楽しんで居りますが、若者よ、戦争などするでない、
軍隊などに行くでない、軍隊程苛め、制裁、嫉妬など過酷な処は他に無い、これに耐えてこそ強くなる。
少しの苛めですぐに自殺する今の若者、これに耐うるや、有難う御座いました、有難う御座いました。
 

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